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ヴァニティ・フェア (バンド) : ウィキペディア日本語版
ヴァニティ・フェア (バンド)

ヴァニティ・フェア(Vanity Fare:小説『虚栄の市』や雑誌名との類似から、しばしば誤って Vanity Fair と誤記される)は、1966年に結成されたイギリスポップ/ロック・グループで、1970年に世界的な大ヒットとなり、百万枚以上を売った「夜明けのヒッチハイク (Hitchin' a Ride)」によって知られている。
== 経歴 ==
学校の友人だった、トレヴァー・ブライス (Trevor Brice、1945年2月12日 - :イングランドケント州ロチェスター生まれ:ボーカル)、トニー・グールデン (Tony Goulden、出生名アンソニー・グールデン (Anthony Goulden)、1942年11月21日 - :ロチェスター生まれ:ギター)、ディック・アリックス(Dick Allix、出生名リチャード・アリックス (Richard Allix)、1945年5月3日 - :ケント州グレイブセンド (Gravesend) 生まれ:ドラム)、トニー・ジャレット(Tony Jarrett、出生名アンソニー・ジャレット (Anthony Jarrett)、1943年9月4日 - :ロチェスター生まれ:ベース)は、1966年にケント州でバンドを組み、ジ・アヴェンジャーズ (The Avengers) と称した。地元のいろいろなナイトクラブに出演している間に、実業家のロジャー・イースタービー (Roger Easterby) に見出され、イースタービーがバンドのマネージャー、音楽プロデューサーとなった。やがて、サッカレーの小説『虚栄の市』からとった「ヴァニティ・フェア」に改名したバンドは、ベル・レコード (Bell Records) の一部門であったページ・ワン・レコード (Page One Records) と契約した。もともと1965年ザ・サンレイズが吹き込んだ曲をカバーした最初のシングル「I Live For The Sun」は、1968年の夏にイギリスでヒットした〔。その後の2枚のシングル「Summer Morning」と「Highway Of Dreams」は全英シングルチャート入りしなかったが、続く「Early in the Morning」は、バンドにとってイギリスでの最大のヒットとなった。マイク・リーンダー (Mike Leander) とエディ・シーゴ (Eddie Seago) が書いたこの曲は、1969年8月にイギリスで8位まで上昇し、ゴールドディスクに認定された。
続く「夜明けのヒッチハイク」からは、キーボード奏者バリー・ランデメン(Barry Landemen、1947年10月25日 - :サフォーク州ウッドブリッジ]] (Woodbridge) 生まれ)がグループに加わった。ピーター・キャランダー (Peter Callander) とミッチ・マレイ (Mitch Murray) が書いた「夜明けのヒッチハイク」は、グループにとって2枚目の、百万枚以上を売り上げたシングルとなり〔、シカゴのラジオ局 WLSでは1970年5月に、同じくWCFLでは6月に、それぞれ2週間にわたってチャートの首位となり、Billboard Hot 100 では、1970年6月から7月にかけて最高5位、イギリスでは1970年1月に16位まで上昇した。
このヒットに先だって、バンドは合衆国でツアーを行っていたが、このツアーの後、ディック・アリックスとトニー・グールデンはバンドを離れ、代わってピアニスト兼歌手のエディ・ウィーラー (Eddie Wheeler) と、ドラマーのマーク・エレン (Mark Ellen) が加わった。
1970年末までに、さらに2枚のシングルが続き、マイク・リーンダーとエディ・シーゴが書いた「Come Tomorrow」、ロジャー・クック (Roger Cook) とロジャー・グリーナウェイ (Roger Greenaway) の「Carolina's Coming Home」が出されたが、合衆国でもイギリスでも、チャート入りは果たせなかった。また、遅れて合衆国でもリリースされた「Summer Morning」は、チャート入りも2週だけで、最高位は98位であった。
その後も数年間、さらにシングルがリリースされ、その中にはDJMレコード (DJM Records) から出た、トニー・マコーレイ (Tony Macaulay) 作の「Better By Far」なども含まれていたが、いずれもチャート入りはしなかった。この後、バンドはヨーロッパを回るライブ・ツアーに専念することを決め、ツアー先ではヒットする曲も出した。1970年代半ば以降は、ジャレットの脱退とバーニー・ハグリー (Bernie Hagley) への交代など、数々のメンバー交代を経て、グループは散発的にはレコーディングを行なわなくなった。1986年、グループはイギリス代表としてユーロビジョン・ソング・コンテストに出場することを目指し、予選である『''A Song for Europe,''』のイギリス大会に、古くからのメンバーであるエレンとウィーラー、またベニー・ハグリーに加え、ジミー・キャシディ (Jimmy Cassidy) をボーカル、フィル・キットー (Phil Kitto) をキーボードに据え、「Dreamer」という曲で出場したが、結果は3位に終わった。グループは、2007年には、P・J・プロビー (P. J. Proby) とともにツアーをした。
その後もグループは活動を継続しており、メンバー構成はハグリー、ウィーラー、エレンに、スティーヴ・オークマン (Steve Oakman) となっている。
ブライスは、余暇として合唱団 the City of Bath Male Choir にセカンド・テナーとして参加しており、この合唱団はBBC One の『''Last Choir Standing''』の決勝まで進出した。ブライスの息子であるセバスチャン・ブライス (Sebastian Brice) はアート・ロック・バンド、エイヴィアス (Avius) のメンバーとなっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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